ももベルのトラベルぶろぐ

ドイツ生活や人生という名の旅の記録。

誰かを支えたい時、まずは自分のことを大事にしてあげよう。

病室からの景色

2月15日の午後3時ごろ、

最愛の父が永遠の眠りについた。

2月6日に帰国し、わずか2週間もしないうちに父は逝ってしまった。

2月の初旬に突然1週間(多く見積もっても3週間)の余命宣告をされ、一般病棟から緩和ケア(体や心の辛さを緩和するケア)の病棟に移動。

(体に負担がかかるからと)点滴なし➕(喉を通らなくて)水も食事も口に出来ない絶食状態で

2週間近く生きれた父の生命力や「生きよう」という強い意志は本当にすごいし、とてもかっこいいと思った。

ただ...2月15日の別れの時までお見送りの準備やこの状況を受け入れようと思って自分なりに頑張って心を整えようとしたけれど、

突然の短すぎる別れの予告、1年半前会った時とは大きく変わり果てた父の姿、

誰に言っても「おかしい」と言われる病気が見つかるまでの経緯から、

この事実を信じることも、受け入れることも、納得することも出来なかった。

《病気が見つかるまでの経緯》

父が一昨年ごろから体調が悪くなり、約1年間毎月のように『とある診療科』に通院や入退院を繰り返していた。

その中で、あきらかに痩せ細ったり、素人でもわかるような(目に見える)おかしい症状が出ており、

父なりに「〇〇の症状があります」「これは大丈夫なんですか?」と何度もお医者さんに訴えていたのに、

担当医やその周りの方に「これは〇〇の影響ですから大丈夫ですよ。よくあることです。」と軽くあしらわれ、まともに取り合ってもらえなかった。

結果、病気の発見が遅れ、しかも病気の核となる部分は、通っていたその診療科で見つかるはずのものだった。

普通に「病気です」「余命3ヶ月です」と言われてもショックだけれど、

上記の経緯があったものだから家族みんな気持ちの置き所にすごく困った。

担当医の人やその診療科の人たちに対して怒りを覚えることもあった。

バレンタインに病院の方がくれたお菓子

そんな中で唯一の救いは、家族みんなで父の最期を看取れたこと。

父との別れの日。その日は朝早くから母、兄と面会に来ていた。

「今の感じやったら日中はいけそうやな。」と話し合って、兄は実家に戻り、母と筆者はスーパーへ買い物に行った。

その1時間後、ちょうどスーパーから出た頃に病院から連絡があった。

電話の内容は「お父様の目の動きや呼吸の仕方が少し乱れています。ご家族さんどなたか1人でもそばにいてあげれますか?」...というものだった。

父が最期の2週間を過ごした緩和ケアの看護師さんやお医者さんたちには、

ギリギリの段階ではなく、少し早めの段階で声をかけてもらえることになっていたため、

そのような内容の電話を受け取った。...それでもやはり不安でいっぱいになった。

その前からも、父の入院期間中は母の電話が鳴るのが怖くてソワソワしていて、

帰国から最初の一週間は夜眠りにつくこともなかなか出来ず、2時間睡眠の日も続いた。

電話を受けて直接病院へ向かおうとしたその時、突然筆者の自転車のペダル部分がうまく作動しなくなって、自転車が走らなくなった。

母だけでも早く行かせたかったので「お母さん、私は歩いて行くから先に行っといて。」と声をかけて、先に病院へ向かってもらった。

この突然の出来事に(いつも自転車の管理をしてくれていた)父からの「焦らんでいいよ」のメッセージだと受け取り、

内心ヒヤヒヤしつつも、自転車を押して家まで帰り、買ったものを冷蔵庫に詰めて、水を一杯飲んでお家を出た。

すると不思議なことに、自転車がまた走るようになった。

そこから病院へ向かって、病室に入ると...

「ごめんな急かして、今また(呼吸)安定したわ。看護師さんからもあと2-3時間は大丈夫やって。」と兄と母が声をかけてくれた。

「なんやぁ、、、。」とヘトヘトになりながら病室の椅子に腰掛けて、心臓のドクドクが治るまで少しぼーっとした。

ドクドクが治った頃、父の呼吸が浅くなって、時間の経過がなんだかゆっくりになって、

家族みんなで「最期なのだな」と確信した。

筆者が病院に到着してわずか5分ほどのことだった。

亡くなる何日か前から瞼を閉じることさえも出来なくなっていた父だったけれど、

眠ってしまう直前、『一回』...『二回』...と間隔をあけてゆっくりと瞬きをし、最後には涙をながしながら眠りについた。

その時の時間の流れがスローモーションのように、本当にゆっくりなものだった。

父の気持ちを聞けない今、その涙が何の涙だったかはわからないけれど、

心身共に苦しさや悔しさを乗り越えた上での「今までありがとう」の感謝の涙だったのかな?...と個人的には思った。

父が眠りについた2月15日午後3時は寒さが落ち着いて、春のような暖かな日差しに照らされるいい天気の日&時間帯。

「(気い遣いの)お父さんのことやから夜中とか、みんなが仕事中の時とか、迷惑かけるタイミングでは去らない気がする。たぶん、午前中か昼とかやと思う。」

...と亡くなる前に何度か話していたものだから、

「温かい陽だまりの中で、家族に見送られるの...お父さんらしいな。」...そう、眠る父を眺めながらお話しをした。

そこから看護師さんたちが父の身なりを整えてくれることになり、

その待ち時間に、悲しむ暇もなく、母は葬儀屋さんに電話をかけることになった。

付き添おうと筆者も母の近くに行った瞬間、突然、鞄の紐がプツン...っと切れた。

自転車の故障、鞄のこと、どうしても偶然とは思えなくて、

ぶつかることも多かった父と筆者だけれど、家族の中では1番距離が近かったし、通ずるものもあったから、

父からのメッセージの数々に、切なくも嬉しいなと感じた。

鞄のことに関しては「父との縁が切れた」という意味ではなくて、

たぶん「もう大丈夫だよ」という意味だったのかな?と自分なりに捉えた。

旦那さんのお迎え日に食べた唐揚げくん

その日から2日後、旦那さんがドイツからやって来て家族みんなで無事葬儀に参加することが出来た。

生前、旦那さんとも会えるのをすごく楽しみにしていた父、

タイミングがずれてしまったけれど、一緒にお見送りすることが出来て本当に良かった。

葬儀を終えてからは毎日家の書類整理や片付けに努めた。

1月に(母方の)祖母も旅立ってしまい、3月に入った今も母が手続き関係に追われていたし、

兄も仕事で忙しかったから片付けやお家のことは筆者が「やります」と引き受けた。

看取ったり、葬式にも参加したのに、いろんな理解が追いつかなくて、心の整理のためにもとにかく片付けに集中をした。

遺影を見ながら「お父さん、ほんまにいなくなっちゃったんやな?」と毎日確認する日々。

部屋を整理する中で、(父方の)祖母の遺品を見つけて、その中にとある一冊の本を見つけた。

何となく目を通したくなって開いてみると「本当に辛い時、人は泣くことが出来ない。」...と綴られていて、

「あっ、今の自分はまさにこれだ。」...そう思った。

ドイツから日本に戻ってくる際、「父との時間を大切に」「兄と母を支える」...そう強く心に誓って帰国。

帰国したその日から10日間、毎日面会に行って、長い時は8時間は父のそばで時間を過ごし、

一緒にいたい思いもあるけれど、日に日に弱っていく父を見るのはとても辛いもので、心身ともに本当に疲れたし、大変だった。

けれど、(人の悲しみや悲しみ方はそれぞれと理解した上で)どう考えても1番辛いのは、

わずか1ヶ月ほどで祖母や自分のパートナーを失った『母』だとわかっていたから、

話を聞いたり、部屋を片付けたり、ご飯を作ったりして自分のできる方法で彼女を支えようと思った。

兄に関しても、同様に自分に出来る方法で支えようと思った。

面会の時も、父と別れた後も、その気持ちを大切に過ごしていた。

旦那さんが日本にやってきて色々話をしていたら、自分自身のしんどさに気づいた。

そして、気持ちにきちんと向き合っていないというか、自分の気持ちに蓋をしていることに気づいた。

でも、2人のことを支えたい今、どうしようかと思った。

すると彼は「2人のことを支えたい気持ちはわかるけど、まずは自分のことを大事にしてあげてね。きちんと支えるためには、まずは自分に絆創膏を貼ってあげないと。」

...そんな風に声をかけてくれて、涙が出た。

外食した時の写真

そこからは「3/1までは部屋の片付けに集中します」「3/1からは自分の時間を大切に過ごします」と

母や旦那さんに宣言して、葬儀から昨日までの2週間ほどは片付けや家事に徹した。

もちろんこれからも色んな方法で家族を支えるつもりだけど、とりあえずは一年半ぶりに日本へ帰って来れたのだから、

掃除ばかりせずにちゃんと自分の時間や大切な人との時間を過ごそうと思った。

ブログを書いている今は、3月1日の午前7時。

今日は美容室を予約したので、重い腰を上げていってこようと思う。

今の自分は「大丈夫」でも、父の死を受け止めきれたわけでもないけれど、

(気持ちの整理や父の記録を残す為に)ブログを書いた方がいいことはわかるので、今こうして言葉を紡いでいる。

周りに30代前半で親を亡くしたという友達がほぼゼロに近いから、

気持ちのシェアをする難しさを感じる部分もあるけれど、

この辛い経験はきっと他の誰かのためになるのだなと確信している。

これからもきっと辛さ、切なさ、寂しさ、もどかしさ、...色んな感情の波が押し寄せてくると思うけれど、

そんな時はしっかり食べて、寝て、運動して、誰かと話したりこうして気持ちを文章にして、この現実と向き合っていけたらなと思う。

 

《お父さんへ》

「お父さん。辛かったね、もどかしかったね。頑張ったね。こんなに早く旅立つ日が来てしまうなんて...きっとあなた自身も本当にびっくりの展開だったと思うけれど、今は愛猫ちゃんと一緒に穏やかな時間を過ごせてたらいいな。今までも、これからも、本当にありがとう。大好きだよ。」娘より

 

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