ももベルのトラベルぶろぐ

ドイツ生活や人生という名の旅の記録。

愛する人に対して、素直であることの大切さ。

 

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2月9日(日)、ドイツから帰ってきて4日が経過。

行きの飛行機からずっと気が張っている状態で、帰国後もずっとその状態が続いていたから一昨日までうまく眠れなくて、

合計睡眠時間 (飛行機での睡眠時間+日本帰国後の睡眠時間)は4〜5時間程度だった。

けれど、日曜日にようやく夜の0時から朝は7時ごろまで一度も目覚めることなくぐっすりと眠りにつけた。

父に関しては帰国してから毎日面会に行っているのだけれど、

病院へ足を運ぶ度に死期が近づいているのを感じていて、

時間によって波はあるけれど、苦しそうな姿を見ていると、本当に可哀想で、辛くて、早く楽になってほしいなと思う。

その反面、

「生きていて欲しいなぁ」「明日も会えたら嬉しいな」「明日もこうして温かい肌に触れれたらいいな」

...とも思う。

日に日に衰えていく父を見つつも、その中に「生きたい」「(母や子供達のためにも)生きないと」という強い意志も感じていて、

特に、ずっと近くで父を見ていた母や兄はその意思をより強く感じているそうで。

「「生きたいのにこの先、生きれない悔しさやもどかしさ」「残された家族への心配」「死なないために生きなきゃいけないと思う使命感」を強く感じているんだと思う」

...そう、ふたりが父の気持ちを代弁してくれた。

だからこそ父が自ら「終わりにしたい」と思うことは絶対阻止したくて、

「生きたいのに生きれない。もっと生きたかった。」と言う父の気持ちを尊重した上で、

見送ってあげるのが良いのではないか...そんな話を家族でした。

お昼頃、家の電話が鳴り、母が電話に出た。

電話の相手は父が散歩道でよく出会していたという隣人の方で、お散歩先での父の話し相手。

父はその方に自身の病気の話もしていたそうで、今回心配の連絡をしてくれたそう。

そんな隣人さんが父とのやりとりの内容を母に教えてくれた。

それは...

「去年の夏頃、かみさんと広島へ行ったんですけど、それがすごい楽しくて、また来年あったかくなったら色々と2人で旅行行きたいなぁって。」

「あとね、(母に苦労や心配をかけないためにも)早く仕事にも戻りたいんです。」

...という、父の本音を知れる貴重な会話の一部だった。

筆者の父も母もとても優しくて愛情深い人たち。だからこそ色んなことや人に気を遣いすぎて、

時々素直になれなくて、生き方もどちらかと言うと不器用で、

学生の頃から「もっと楽に生きる方法があるのに」と娘の立場から思うことも多々あった。

筆者が幼稚園にいく頃までとっても仲の良い夫婦だったらしいけれど、

色んな出来事が起こって、それが複雑に絡まり合って、

口を開けば喧嘩、喧嘩で、夫婦関係も家族関係も「良い」と言えない日々が

筆者が社会人になった後も、ずっとずっと続いていた。

家族一人一人の心を覗けば「みんなで穏やかに暮らしたい」「昔みたいに仲良く、楽しく暮らしたい」「思いやりを持って過ごしたい」

... という同じ思いを昔から変わらずに持っていたはずなのに、

自分自身を含めてみんな、毎日生きる事に必死で、誰かを思い合う余裕も、

(特に父と母は互いに)素直に気持ちや思いを言葉にすることも少なくて、

ただ悶々とした気持ちを怒りに変えてぶつけることの方が多かった。

だから、いつも家の雰囲気が悪くて、

「居心地が悪い」「家に帰りたくない」...そう思うことが毎日のように続いた。

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そして、それが海外に行く事にも少し繋がった。

そんな筆者家族だったけれど、この3、4年で家族関係も夫婦関係も少しずつ良い方向に変化していった。

今まではぶつかるだけで終わっていたことも、

「相手を思いやる」「素直でいる」ということをそれぞれが学んだので、

ぶつかるだけで終わらないことが徐々に増えていった。

親子感でも、夫婦間でも、兄弟間でも、昔からずっと隠れた強い絆はあったけれど、

その部分が何年もの年月をかけて、表でもハッキリと見えるようになった。

そこから、父と母が2人で出かけたり、喧嘩なく話せることも増えて、

「良い関係性」を気づけているのだと、ドイツにいながら本当に安心をしていた。

父から届くラインの内容のほとんどは、

「今日はお母さんと〇〇という映画を観に行きました。映画も主題歌もかっこよくて良かったです」

...そんな、報告のメッセージが多かった。

その度に、本当に嬉しいと思った。

最後に家族4人で旅行したのは筆者が小学五年生の時だったけれど、

そこから20年近くの時を超えて、そんな経緯を乗り越えての父と母がした広島への旅行だったから、

心から嬉しいな、良かったな...そう思った。

正直、家族で過ごした時間は、(少なくとも筆者の感覚としては)苦しい時間の方が多かったけれど、

どんな時も自分自身にとっては大切な家族で、本当に大好きな存在。

だからこそ、「これから」という日を父と母にもう少し一緒に長く過ごして欲しかった。

父たちを旅行に連れていったり、いつか孫の顔を見せたり、お正月を家族でワイワイ過ごしたり

...そんなこともしたかった。

だから胸が苦しくて仕方がない。

それでも、唯一救いだったのは、母も同様に、去年の旅行のことを

「楽しかったな。これからも(父と)ふたりで色んなところ行けたらいいなぁ。2人の時間を作るって大切なんやなぁ。」

...と思っていて、

「お父さんも同じこと思ってたんやなぁって思ったら嬉しい」...そう涙しながら、母は口にしていた。

それと同時に「お父さんが亡くなったら、お父さんの写真を持って、お父さんが行きたかった旅行先に行こうね。」

...そう筆者に声をかけた。

ドイツに渡る時、「いつか」「何かあった時」も含めて本当に色んな覚悟をして旅立ったけれど、

まさかこんなに急に、こんな事になるなんて思いもしなかった。

父本人もまさかすぎて驚いていると思う。

家族が仲良くなるきっかけとして、筆者自身もめちゃくちゃ努力をしたから、

喧嘩もしたけれど、その分、父との距離もかなり近づいて、

筆者が実家に顔を出す度に嬉しさが顔から溢れ出したような、

...そんな柔らかい表情でいつも迎えてくれていた。

そんな父は筆者のドイツ行きを寂しがっていたけれど、

「行ってはダメ」と止めることは決してなくて、

むしろドイツで暮らすことを誇りに思っていたようで、

まだ元気に歩いたり、話せる頃、看護師さんにも筆者の写真を見せて、よく筆者の話を自慢げに話してくれていたらしい。

辛い時間だけれど、悲しい時間だけれど、父のみんなへ対する愛を耳にする機会も多くて、

愛おしさ、嬉しさ、寂しさ、悔しさ...色んな感情で心が忙しい。

帰国してから4日間毎日面会へ行っているのだけれど、明らかに日を増すごとに弱っていく父。

初日は意識もしっかりしていて、目を見て「話そう」と頑張ってくれていて、手もグーっと強く握り返してくれて、気遣いもすごかった。

2日目は二口だけヨーグルトを食べて、水も頑張って飲んで、必死に愛のある言葉や想いを伝えてくれたり、音楽に楽しそうに耳を傾けていて、

3日目は痰が絡んだり、喉や口の乾燥から話すことがなくなって、でも感覚や意思はしっかりあるし、「帰るね」と声をかけた時は、ヒラヒラと手を振って見送ってくれた。

4日目はお話をすることも、目が合うことも無くなってしまって、でも、音楽をかけると反応があったり、たまに手を動かそうとしたり、看護師さんが顔を拭いてあげると気持ち良さそうな表情をしたりしているように見えた。

そして、その4日目、父に言いたいことを言っておこうと思って、

「知ってると思うけど、お父さんのこと大好きやで。あと、知ってると思うけど、兄ちゃんもお母さんもお父さんのこと大好きやで。あと、お父さんがみんなの事めっちゃ好きなのも知ってるで。」

...なんて話を父にしてみたら、少し反応があった気がした。

目が合わなくても、話せなくても、最後まで耳は聴こえるので別れの言葉ではなくて、父との思い出や愛の気持ちを自分なりにしっかりと伝えた。

父もきっと心の中で同じような言葉を返してくれたのだと思う。

会話は難しくなってしまったけれど、予定より早く帰国して、2日間だけれど父と会話できて本当に良かったなと今は思う。

(前回のブログで書いたけれど)2日目は父が筆者や母に対して精一杯の愛を表情・言葉・動きで伝えてくれて、

きっと「今しか伝えれない」と思ったから伝えているのだなという覚悟や気持ちをヒシヒシ感じた日。

そして、その翌日、意思を示すことはあっても声を出すことはなくなった。

現在、2月10日の午前2時。

昨晩はしっかり寝れたので、今晩もゆっくり寝れそうと思ったけれど、

布団に入って2時間でまた目が覚めてしまった。

悲しみ、辛さ、不安、愛おしさ、戸惑いで心がざわついているので、今こうしてまたブログを書いている。

余命宣告の期間は1、2週間。

昨日でその1週間を迎えた。

今日もまた面会に行く予定。

無事父に会えるのかはわからないけれど、

もし無理なら「お疲れ様、頑張ったね。」と声をかけたいし、

もし会えるならまた温かい手を握りたいなと思う。

 

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