ももベルのトラベルぶろぐ

ドイツ生活や人生という名の旅の記録。

今すぐ伝えよう、「好き」や「ありがとう」の気持ち。

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2月4日の朝、日本にいる母から「父の余命があと1-2週間である事」を知らされた。

数日前までは最長で3ヶ月と聞かされていたばかりに、とても動揺した。

動揺したけれど「じゃあすぐ日本に向かえるよう準備するわ」と電話を切り、

「おちつけ、自分」と声に出しながら、深呼吸をして、翌日飛べる日本への便をチェックした。

幸いにもギリギリ席が空いており、昨年夏に予約したチケットの日程を無事変更。

翌昼、(仕事の都合で同じタイミングで日本へ行けない)旦那さんと空港で別れ、一人日本に向け旅だった。

飛行機に乗る際は、乗り換えや長時間旅、父と無事会えるかにヒヤヒヤしつつも、

日本に着いたら「嫌でも苦しい時間を過ごす事になるだろう」と思っていたので、

感傷的にならず、純粋に「フライトの時間を楽しもう」と自分なりに工夫して心を落ち着かせた。

約20時間弱の旅を終えて、無事に日本に到着。

いつもは空港に誰かしら迎えに来てくれていたので、お迎えがいない帰国は今回が初めて。

当たり前ではない、その「いつも」がない事に、少し寂しさを覚えた。

そこから電車やタクシーを乗り継ぎ、無事に実家に到着。

仕事終わりの母と1年半ぶりの再会を果たした。

筆者の帰国を聞きつけた兄も忙しい中、実家に駆けつけてくれて、

3人で久しぶりの再会の時を喜んだ。

その夜、1秒でも早く父に会いたかったので、長旅で疲れていたけれど、3人で病院を訪れた。

ドイツにいる時から「食事が出来なくてすごく痩せたし、この数ヶ月ずっと寝たきりだから、かなり見た目が変わってるよ。」と2人から何度も聞かされていたから、

自分なりに想像や心の準備をして病室に入ったのだけれど、

久しぶりに見る父の姿は...筆者の知る父とはかなりかけ離れた、一言で言うと「ショック」な姿をしていた。

それでも「今ここで泣いてはいけない」と思って、ラフな感じで父に「久しぶり!帰ってきたよ〜。」と声をかけたら、

目を大きくしながらこちらを見つめて、我が子との再会を喜んでくれている様に見えた。

痛み止めや絶食の影響か呂律が回らなかったり、発声がうまくできないものの、

こちらの言っていることはしっかりと理解しているようだったし、ゆっくりだけれど会話のキャッチボールも出来るので、

悲しいけれども、お話が出来たことに喜びを覚えて、「話せるうちに帰国して良かった」...そう心から思った。

今回の父の病気のこと、病名や細かいことはお話し出来ないけれど、

家族にとって、苦しいほどに悔いが残っていることの一つが「病気の発見が遅すぎた」と言うこと。

一昨年の冬から体調を崩して、入退院や通院を繰り返している中で、

父は色んな痛みや症状を抱えながらも治療を頑張っていて、でも全然良くならなくて、むしろ悪化して、

「〇〇な症状が続いているんです」「〇〇の可能性はありませんか?」と言うようにお医者さんに訴えていたけれどきちんと取り合ってもらえず。

父自身も、それをそばで見ていた母も怒りを覚えていた。

そこから、本当の原因を突き止めるまで1年ほどの時間(それが先月のこと)を要してしまい、その間に彼の病状はみるみるうちに悪化していってしまった。

だから家族からすると「病気を見つけれたはずなのに、見つけてもらえなかった」

「もっと早く見つけてもらえてたら、もう少し長く生きれたはずなのに」という悔やんでも悔やんでも悔やみきれない経緯があり、

その状態を受け止めるのに必死な中で、「余命があとわずか」(しかも数週間)と言われて...

みんなの気持ちが追いついたり、理解をしたり、その事実やこの状況を受け入れれるわけもなく。

特に、母と父がそのことにとても苦しんでいる。

担当の先生が頼りにならないなら『セカンドオピニオン』等の他の方法を試せば良かったのかもしれないけれど、

父が病で苦しむ中、同時期に祖母も重たい病気を患っていたから、正直、家族にそんなことを考える余裕なんてなかった。

また筆者自身は、ドイツと日本で離れていたとはいえ、もっと気にかけてあげれたのではないか、もしかしたら何か良いアイデアを出せたのではないかとふと考えたりもする

でも起きてしまったことはもう元には戻せない...そんなどうしようもない経緯でたどり着いたのが今。

「手遅れ」という、嫌でも死からは逃れられない状態。

 父の体力的にも治療を続けるのは難しいので、少しでも患者さんや家族さんが一緒に最期を穏やかに過ごすための『(心身の辛さを和らげる)緩和ケア』をしてもらうフロアに父は移された。

体のあちこちに痛みがあったり、熱があったり、食事もほぼ喉を通らない状態で大変なのに、気い遣いな父は、

お見舞いに来た家族のことを気にして「ありがとう」「晩ごはん食べた?」「歯医者さん行きや」など、

話すのが難しい中で頑張って自分の声で届けようとしてくれて、

父の優しさに、愛おしさと、胸がキューっと締め付けられる感覚があった。

筆者は1年半ぶりの再会だったけれど、兄や母は父が入院などをするたびに病院を訪れていたり、

先月には祖母も亡くなったばかりだっただから心も体もバタバタと落ち着かない状態の中、こんな状況に陥っているため、

気は張っているけれど、心身共に疲労がかなりきている様子で、近くで見ていてとても苦しくなった。

そんな風に病室の中にさまざまな光景や感情が目まぐるしく広がっていたけれど、

久しぶりの父との時間を大切にしたくて、少しでも明るいものにしたくて、

ちょっとおちょけてみたり、「じゃあ、写真撮ろう」っと家族に声をかけて家族4人で何枚か写真を撮った。

父とツーショットを撮ろうとしたら、後出しジャンケンのスピードで、ゆーっくりとピースサインもしてくれた。

そこから2時間ほど病室に滞在して「また明日来るね」と父に声をかけて病室を後にした。

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その後、3人で近所のレストランで夕食を食べながら、色んなお話をした。

「辛いけど、こう言う時、家族の絆や心強さを感じるね」っと頷き合ったりもした。

帰宅後は、夜も遅かったので、寝支度をして各々部屋へ。

布団に転がって、眠ろうとするけれど、久々に会った父の姿に大きなショックを受けていたり、この現実を受け入れるのが難しかったり、

病気の発見が遅かったことによって起こった今の状況や母や父の気持ちを想像していたたまれない気持ちになって、涙が止まらなかった。

時差ボケを防ぐためにもきちんと睡眠は取らなければいけなかったのだけれど、

目を瞑ると今日の出来事や気持ちが浮かんでくるし、目が冴えてきてしまうので、

長旅で疲れていたはずなのに2時間しか眠れなかった。

でも、筆者が帰ってきたことで「安心材料?」が増えたようで、

翌朝、母や兄は「久しぶりにちゃんと寝れた」と話していて、今のタイミングで帰って本当に良かったなと思った。

兄はその日は仕事や予定が朝から晩まで詰まっていたので「面会には来なくて大丈夫だよ」と伝えて、夕方ごろ母と二人で父の元へ行った。

食事も水も喉に通りにくく、ほぼ絶食の状態が続いているから、父は昨日来た時よりもぼーっとしている状態だった。

話は通じるものの、呂律がうまく回らず、昨日よりも言葉を聞き取るのにとても苦労した。

ただ、少しでも楽しい時間を過ごせたらなとYoutubeで父が好きな/好きそうな音楽を流したら、

頭を左右に動かしてリズムを取ったり、口ずさもうとしたり、手を頑張って動かしてリズムを取ったりしていた。

一緒に手を繋いで手を左右に揺らして音楽を聴いたりしたら、少し楽しそうに見えた。

いくら寝たきりで会話が難しくても、こうしてその人の「好き」に触れさせることは、大切なことなんだなと思った。

音楽を一通り聴いた後、父は母や筆者を近くに呼び寄せて、「顔を見せて」とお願いをしてきた。

その後、それぞれのほっぺたを触ってなんだか愛おしそうに見つめていた。

また、そんなタイミングで父は母に「好き」の一言を伝えた。

もしかしたら聞き間違い?と思って、「好きって言った?」と父に何度か聞きなおしたけど、

「間違いない」と言うようなリアクションをしていたので、きっとそうなんだと思う。

父が母にそんな言葉をかけたことや、筆者が父に顔を触られたことなんて、きっと何十年ぶり。

驚いたけれど、なんだか嬉しい気持ちになったし、そんな言葉を受けた母は涙しながら「ありがとう」と父の手を握り返した。

切なくて、温かい時間が流れた後、昨晩母が話してくれた話を思い出した。

それは「去年の12月お父さんが病院に入院する前、すごい体調悪くて辛そうやったのに「2月に(筆者が)帰ってくる時のために自転車の空気入れたり、点検しとかな。」って言いながら、苦しい中頑張って準備してくれていたよ。」...というもの。

その胸がキュッとなる話を思い出しながら「お父さん、自転車に空気入れてくれてありがとうね。すごく走りやすかったよ。」と父に声をかけてみると、

すごく穏やかな表情で「うん」と頷いて、この滞在期間でいちばんの笑顔を見せてくれた。

その後、2時間ほど滞在をして「また明日ね」「明日来るね」と挨拶をして病室を出た。

見送るたびに「これが最後にならなければいいな」と思いながら病室を後にする。

大好きだけれど、大好きだからこそ、死を目の前にした父と一緒の時間を過ごすというのは本当に辛いもので、病室を出てから母と二人でたくさん泣いた。

どうしようもない気持ちで病院から出ると、幸か不幸か、すごい勢いの風と雹が空を舞っていて、母と2人で思わず笑ってしまった。

向かい風&大きな雹がこれでもかと顔に当たるので、ものすごく痛くて、本当に痛くて、

でも、それが可笑しくて、2人して「痛い、痛い(笑)」と笑いながら、お家まで自転車を走らせた。

帰宅後はどんと疲れが来ていたけれど「こう言う時だからこそちゃんと食べないとね」と晩ごはんをしっかりと食べた。

その後、悲しいけれども、今後のために母とお葬式について色々と調べて、その日は眠りについた。

でも、やはり気が休まらなくて、疲れていたのに就寝から2時間後にはパッチリ目が覚めてしまい、朝3時前からこうしてブログを書いている。

帰国前は自分の携帯が鳴る度、帰国してからは(病院の緊急連絡先である)母の携帯がなるたびに本当にヒヤヒヤしてしまうけれど、

もしまだチャンスがあるなら、最後の最後まで父との時間を家族みんなで大切に過ごしていけたらなと思う。

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